最終更新日:2014/ 9/25(木) 12:53:48
学会報告「有賀長雄の対外認識」
基本情報
- 報告題目:
- 有賀長雄の対外認識:日露戦争から第1次世界大戦まで
- 報告日時:
- 2014年7月6日
- 会場:
- 山口県立大学
- 単独/共同の別:
- 単独
報告の概要
有賀長雄(1860―1921)は、明治から大正初期にかけて活躍した国際法学者・外交史学者である。国際法学者としては、とくに戦時国際法の領域で活躍し、日清・日露戦争の際には、伊藤博文や大山巌の依頼によつて、現地派遣軍の国際法顧問として従軍してゐる。また外交史の領域では、日本で初めて、本格的な外交史の講義を東京専門学校(現・早稲田大学)で担当したほか、日本で最初の外交専門誌である『外交時報』も創刊してゐる。
有賀は辛亥革命のあと、袁世凱の法制顧問として北京に渡り、中華民国憲法草案の起草に関つた。そのため、彼に関する先行研究の多くは、おもにこの点に分析の焦点を絞り、その中国観などを解明しようとしてきた。
しかし『外交時報』などに発表された有賀長雄の言説を全体として見てみると、彼は「中国や朝鮮半島の情勢を、独立した事象として認識してゐた」というよりも、欧米列強が当時、ヨーロッパやアフリカ、中近東などで多面的に展開してゐた帝国主義外交の一環として、これを認識しようとしてゐたことがよく判る。たとへば1900年の時点で、彼はつぎのやうに述べてゐるのである。
「世界の大勢は英露独仏の向背に依て定まる、墺伊以下の諸国は蠢々徒に他の後塵を拝するのみ〔…〕吾人は遺憾なから世人の已惚るゝ如く帝国は日清戦争の餘威に藉り一躍して一等国の伍班に列したりと言ふ能はず、而かも極東事件の処理には亦必す何国と雖も帝国を度外視する能はさるは識者と共に認むる所、而して極東の外交なるものは北京若くは東京の外交に非すして実は悉く倫敦、伯林、聖彼得堡若くは巴黎に於ける外交の反響に外ならさるを以て、心を外交の機微に潜むる者は三たび思を此こに致して可なり」(「欧洲半月外交史」『外交時報』第26号、1900年3月)
そこで今回の報告では、彼の対外認識を総体的に俯瞰するなかで、その中国に対する認識を位置づけてみたい。有賀は当時、韓国の保護国化や満洲の「委任統治」を主張してゐるが、これらの「植民地支配」を、彼がどのような論理で正当化しようとしたのかといつたことが、本報告の関心の中心である。
補足情報
本報告は平成26―28年度科研費(基盤研究C)「近代日本の外交思想:『転換期の国際社会』を知識人たちはどう捉へたのか」(代表・伊藤信哉/課題番号26380225)による研究成果の一部です。
また、ほかに何かお気づきの点がありましたら、ご一報いただけると幸です。
関連リンク
研究関係>対外認識論>これまでの研究成果をご覧ください。