最終更新日:2011/ 3/17(木) 10:11:34
論文「20世紀前半の日本の外交論壇と『外交時報』」(旧版)
この論文は、補訂加筆のうへ、2011年3月に刊行された著書『近代日本の外交論壇と外交史学』に収録されました。補訂後の論文の詳細については別ページを用意しましたので、そちらをご覧ください。
別ページ:論文「20世紀前半の日本の外交論壇と『外交時報』」
書誌情報
- 名称:
- 20世紀前半の日本の外交論壇と『外交時報』(1)~(6)
- 種別:
- 論文(学術誌に収録されたもの)
- 単著/共著の別:
- 単著
- 発行年月:
-
- (1)2008年4月
- (2)2008年8月
- (3)2008年10月
- (4)2008年12月
- (5)2009年4月
- (6)2009年8月
- 発表誌:
- 『松山大学論集』
- (1)第20巻1号
- (2)第20巻3号
- (3)第20巻4号
- (4)第20巻5号
- (5)第21巻1号
- (6)第21巻2号
- ISSN:
- 09163298
- ページ数:
-
- (1)1―23頁(23頁)
- (2)1―19頁(19頁)
- (3)1―25頁(25頁)
- (4)1―31頁(31頁)
- (5)1―28頁(28頁)
- (6)1―34頁(34頁)
概要
1.論文の要旨
本稿はもともと『外交時報総目次・執筆者索引:戦前編』の「解題」として、同書の巻頭に収録される予定のものでした。しかし、見込んでゐた分量を大幅に超えてしまつたため、独立した研究論文として発表することにし、上記目録には、本論を大幅に縮約したものを掲載しました。このやうな経緯から本論は、書誌としての性格のきはめて強いものとなつてゐます。
以下に、本論の要旨として「をはりに」の「結論」部分をそのまま転載いたします。
『外交時報』は、一八九八(明治三一)年に、わが国における外交史学の始祖たる有賀長雄によつて創刊された。そして一九二一(大正一〇)年に、半沢玉城を第四代社長に迎へてから、飛躍的な発展を遂げていつた。当時の同誌は、日本の「外交論壇」の中心的な存在として、競合する類似誌を圧倒してをり、また掲載される論稿は、国内はもちろん国外からも、つねに注目を集めてゐた。
そしてこの、全盛期の『外交時報』は、他誌に類例のない特徴を二つ持つてゐた。ひとつは、学術誌・報道誌・評論誌の三つの要素を、高い水準で統合してゐた点である。もうひとつは、本稿の冒頭でも触れたやうに、政、財、官、学、軍および評論の各界を代表する者たちから、続々と原稿が寄せられた点である。
これらの特徴は、近代以降の日本で創刊された、同誌以外の外交専門誌には、およそ見られないものである。もちろん学術、報道、評論のうち、いづれか一つの領域で高い評価を得た雑誌となれば、ただちに複数の名を挙げることができる。しかし、これらの総てを一つの雑誌で兼備したものは見当らない。また『中央公論』のやうな総合雑誌ではなく、国際問題の専門誌として、政治家や外交官、財界人、あるいは一流の研究者の論文が、毎号のやうに掲載された雑誌も存在しない。その意味で、戦前期の『外交時報』は、わが国の外交論壇において「空前にして絶後」の雑誌だつたと判断される。
しかし半沢玉城は、そのやうな空前絶後の雑誌を、独力で作り出したわけではなかつた。むしろ有賀をはじめ、歴代の社長たちが、それぞれの立場から『外交時報』にさまざまな要素を付け加へていつたのが、半沢の時代になつて、一挙に開花したと考へられる。
まづ創刊者の有賀は、自らも秀れた学者であつたが、立作太郎などの優秀な研究仲間を寄稿陣に引き入れ、草創期の『外交時報』を、一流の「学術雑誌」として整備することに努めた。煙山専太郎も指摘するやうに、『外交時報』の基礎は、この時期に固められたといへる。
つぎに報道界出身の大庭景秋は、稲原勝治や重徳来助のやうな、のちに新聞人として活躍することになる人々を、常連執筆者として重用した。また、当時は成功したとは言ひ難いが、各国に海外通信員を配置するなど、「報道誌」としての要素を強化するべく、さまざまな工夫を凝らした。
第三代社長の上原好雄は、言論人として自らの見識を世に問ふやうな人物ではなかつたが、一方で、外交官や政治家などの実務家たちが、同誌に寄稿する道筋を作りあげてゐる。これにより『外交時報』は、「評論誌」としても、その声価を高めることになつた。また『やまと新聞』で実績をあげた半沢玉城を登用し、その能力を十全に発揮する環境を調へた。
このやうな過程をへて、『外交時報』は一九二〇年代以降、飛躍的に発展することになる。かう考へると、『外交時報』は、有賀あるいは半沢のみの創作物ではなく、大庭や上原を含めた、四人の社長の「共同作品」であつたと見るべきであらう。
しかし、一九四〇年代に入ると、「出版用紙の不足」と「言論統制の強化」といふ、二つの外的要因により、『外交時報』は急速に没落することになる。そして一九四五(昭和二〇)年四月、第一一一巻九五六号を最後に、その刊行を休止することになつた。
2.論文の目次
- はじめに
- 『外交時報』の位地
- 編輯・経営の実態と変遷
- 第1章 有賀長雄の時代(1898年2月―1911年10月)
- 創刊者・有賀長雄
- 『外交時報』の創刊
- 創刊の動機
- 外交時報社の設立と編輯組織
- 最初期の経営体制
- ”個人雑誌”からの脱却
- 誌面の構成と特色
- ページ数
- 記事分類〔以上(1)〕
- 執筆陣と寄稿者
- 誌面の特色
- 重要論文・記事
- 読者と社会の反応
- その他
- 譲渡の経緯
- 小括〔以上(2)〕
- 第2章 大庭景秋の時代(1911年11月―1914年4月)
- 第二代社長・大庭景秋
- 大庭時代の経営と編輯
- 誌面の構成と特色
- ページ数
- 記事分類
- 執筆陣と寄稿者
- 誌面の特色
- 重要論文・記事
- 読者と社会の反応
- その他
- 譲渡の経緯
- 小括〔以上(3)〕
- 第3章 上原好雄の時代(1914年5月―1920年12月)
- 第三代社長・上原好雄
- 上原時代の経営と編輯
- 出版事業への進出
- 世界大戦勃発の余波
- 定価の改定
- 誌面の構成と特色
- ページ数
- 記事分類
- 執筆陣と寄稿者
- 誌面の特色
- 重要論文・記事
- 読者と社会の反応
- その他
- 譲渡の経緯
- 小括〔以上(4)〕
- 第4章 半沢玉城の時代〔前期〕(1921年1月―1931年12月)
- 第四代社長・半沢玉城
- 半沢時代〔前期〕の経営と編輯
- 北京支局の設置と「倍大号」の登場
- 懸賞論文の公募
- 定価の改定と流通経路
- その他
- 誌面の構成と特色
- ページ数
- 記事分類
- 執筆陣と寄稿者
- 誌面の特色
- 重要論文・記事
- 読者と社会の反応
- 小括〔以上(5)〕
- 第5章 半沢玉城の時代〔後期〕と小室誠の時代(1932年1月―1945年4月)
- 半沢時代〔後期〕の経営と編輯(1932年1月―1943年12月)
- 事務分室の開設と本社の移転
- 第六九巻七〇一号の発売禁止処分
- 日本外交協会の設立
- 外交考査部の新設と懸賞論文
- 倍大号の廃止と減ページ
- 小室時代の経営と編輯(1943年12月―1945年4月)
- 第五代社長・小室誠
- 刊行頻度の減少と本社の移転
- さらなる減ページと刊行の遅れ
- 誌面の構成と特色
- ページ数
- 記事分類
- 執筆陣と寄稿者
- 誌面の特色
- 重要論文・記事
- 読者と社会の反応
- その他
- 休刊の経緯
- 小括
- 半沢時代〔後期〕の経営と編輯(1932年1月―1943年12月)
- をはりに
- 結論
- 今後の課題
- 外交時報社に関して
- 『外交時報』に関して〔以上(6)〕
正誤表・補足情報
誤 | 正 | |
---|---|---|
(4)18ページ17行目 | 佐藤鉄次郎 | 佐藤鉄太郎 |
(4)18ページ19行目 | 佐藤鉄次郎 | 佐藤鉄太郎 |
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入手・閲覧方法
各地の図書館(大学図書館・公共図書館)で閲覧できます。下記のリンク先から検索してみてください。
全文データ
下記の2種類がありますので、それぞれの特徴を理解した上でご利用下さい。
- 現代仮名遣い・新字体版
(1)・(2)・(3)・(4)・(5)・(6)/実際に雑誌に掲載されたもの。引用は必ずこちらに拠つて下さい。
- 歴史的仮名遣・旧字体版
(1)・(2)・(3)・(4)・(5)・(6)/上記の歴史的仮名遣・旧字体版です。Adobe InDesign CS2で組版しなほしました。
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参考文献リスト
(現在作成中です)